きんぎょのブログ

大阪で働くアラフィフのサラリーマン。いろいろと気になることを書いてます。

自分のルーツを探ってみた その3

兵庫県立図書館

新型コロナウィルスがこんな騒ぎになるとはまだ考えていなかった3月の初旬、兵庫県明石市にある兵庫県県立図書館に行ってきた。

ちいさい時は絵本を借りに、その後も受験勉強にためによく通っていたが、最近はすっかりご無沙汰の図書館。

館内はまだ朝が早いこともあり閑散としていた。司書に教えてもらった郷土史のコーナーに向かい、書架を見ると驚くほどたくさんの種類の歴史書があった。県や市だけでなく、町や村や〜家のものまである。有名企業の社史なんかもあってここだけで1日過ごせそうだが今日はそうもしていられない。新型コロナ騒動で開館時間が短縮されているからだ。

多くの史書の中からなんとか目的の三日月町史を発見。県史が、それこそ一大編纂事業の成果だとばかりに豪華な表紙に立派な書で〜県史などと書かれているのと比較すると、幾分寂しいものがあるが、それでも三日月町史全7巻、存在感は負けていない。

 

森家藩中順序

町史なのでもちろん町の歴史がメインなのだが、三日月藩についてに様々な情報も詳細に記録されていた。

三日月藩は学問とともに武術が盛んであったようで、その流派は剣術は直心影流、槍術は祭神流。そして弓術が石堂竹林流などとある。さらにそれぞれの武術の使い手の名も多く記されており、槍術の達人が初代井上源左衛門。森長俊に仕えた北角彦兵衛は剣の使い手。弓術の免許を受けたと紹介されているのは武源治正方だ。我らがご先祖さまは弓の名手とのことだが、弓術に長けた同姓の武士の名は残念ながら記述されていなった。

別の巻を開いてみるとそこに役職順に整理された名簿が載っていた。森家藩中順序とある。こう言うのが見たかったんだ。

それは三日月藩で森家に仕えた武士の名簿で、御家老から小姓、足軽といった職位ごとに氏名が記載されている。こんなすごい資料が残されているなんて、歴史学者たちの偉大な功績だな。

そして名簿の中についに見つけた。自分と同姓の武士がひとりいる。役職は中小姓。家老や年寄が上士と呼ばれるのに対し中小姓は下士というクラス。武士の階級的には真ん中くらいらしい。果たしてこの方がご先祖さまなのか。自分の苗字はそれほど珍しくもないが、かと言って多いほうでもない。全国で250番目くらいの多さなので、実際、団塊ジュニア世代だが同姓の同級生に出会ったことがない。

と言うことから考えてもこの人がご先祖さまと考えてもおかしくないんじゃないか?

 

足軽隊 長百々半左衛門

次に問題はこれがいつの名簿なのかと言うことだ。兵庫県内各藩の家臣の一覧が載った資料(兵庫県立図書館)によると資料作成時期は明治4年とある。しかし作成は幕末でも、記載されている人物がその頃の武士なのかどうかがわからない。もっと古い家臣たちの記録かもしれないのだ。そこでこの名簿の登場人物について片っ端から調べてみることにした。

調べ始めて何十人目だったか、同名簿に百々半左衛門と言う物頭がいる。物頭とは足軽隊を率いた足軽大将と言う役職なのだそうだが、その百々半左衛門の記録を太政官日誌の中に見つけることが出来た。

太政官日誌とは現代の官報の先駆で、明治新政府の成立直後から発行された日誌形式の政令記録のことである。内容は太政官布告,人事異動,東征軍の戦況などが記されている。もちろんウィキペディアからの引用である。

その明治元年111号 – 『太政官日誌』フルテキストデータベース(日誌フル)に出先隊長百々半左衛門からの報告とある。つまりこの人物は、明治元年(1868年)に隊長として越後戦争に出陣していたのだ。と言うことで、同名簿は幕末の記録で間違いないだろう。なんか歴史ミステリーの読者気分でワクワクしてきた。

 

名探偵あらわる

ここからは名探偵ホームズかあるいはFBI捜査官並みのプロファイリングで紐解いていく。

明治時代の男性の平均寿命が43歳くらいらしい。その年齢で戦死する人も多かったのだろう。と言うことで百々半左衛門が隊長として越後に向かった明治元年の年齢は30後半ばから40代と思われる。そこから逆算して生まれ年は1825年から1830年くらい。元号天保の前の文政と言う時代だ。

一方、いま生年月日が分かっている一番古い我が家のご先祖さまは曽祖父(3代前)の卯一という人物で、その父親である親雄(4代前)の三男として明治11年(1878年)5月10日に生まれている。

そして存在のみ判明しているのが親雄。わかっている情報は名前と三男であると言うことくらい。あと妻女のたねが弘化4年(1848年)生まれと言うこと。生年も没年も不明。この人物をまずはプロファイリング。

幕末の家庭。妻女が長男を生んだのが19歳である慶應3年(1867年)。そして三男である卯一(3代前)が明治11年(1878年)に誕生。妻女のたねの生まれ年(1848年)から推測しても、親雄(4代前)が生まれたのは1850年前後と推測される。

その親雄(4代前)が三男であることから考えても、その父親が生まれたのは1820年から1825年頃。まさに百々半左衛門と同世代。

と言うことは森家藩中順序に載っている同姓の武士は、百々半左衛門と同じ時代を生きた親雄(4代前)の父親(5代前)と考えて間違いないのではないか。

 

残念ながらこれらを証明するしてくれる資料は何もない。実は我が家の家系図は上郡の正福寺と言うお寺にあったそうなのだが、昔に焼失してしまったらしいのだ。

まだまだ追いかけていきたいが、今回のご先祖探しはここまでにすることにした。

190年も前の人々を知り、その時代にロマンを馳せることができた。実に楽しいルーツ巡りであった。

いつの日かご先祖さまたちが生きた地を実際に訪れ、この続きを探ってみたいと思う。